2014年3月11日 府中緊急派遣村&原発イヤだ!府中 共同街頭アピール

2014年3月11日に府中駅前で行われた、「3.11を忘れない」府中緊急派遣村&原発イヤだ!府中 共同街頭アピールの映像です。
府中緊急派遣村の高見さん、原発イヤだ!府中の目黒さん、村上さんが発言しています。
府中緊急派遣村は、震災直後から被災地の支援活動を継続して行っています。カンパも募集しています。よろしくお願いします。
府中緊急派遣村 - http://blogs.yahoo.co.jp/peace19th
原発イヤだ!府中は5月から隔月デモを予定しています。デモへの参加をお願いします。
原発イヤだ!府中 - http://nonukefuchu.hatenablog.com/

佐村河内守さん問題とNHKスペシャルでコメントした音楽関係者

NHKスペシャル「魂の旋律 〜音を失った作曲家〜」 http://www.nhk.or.jp/special/detail/2013/0331/ で二人の音楽関係者がコメントをしており、佐村河内さんに関してどのようなコメントをしていたのか記録しておく必要があると思ったので文字にしておきます。特に野本さんが交響曲について非常に高く評価されていますが、作曲したと言っている本人に曲について質問してみればゴーストライターが存在することが分かったのではないかと素人考えですが思いました。

作曲家 三枝成彰さん

どこかで新しい21世紀の音楽を作らなきゃいけない。その先兵が佐村河内さん。

音楽学者 野本由紀夫さん

楽譜を読み込むと非常に緻密に書かれていて1音符も無駄な音がない。相当に命を削って生み出された音楽。
初めてこの曲を聴いた時、素直に感動した。非常に重い曲だと思った。
言葉で言い表すこと自体薄っぺらくなってしまう。
千年前の音楽から現代までの音楽史上、様々な作品を知り尽くしていないとこういう作品は書けない。
「トリトヌス」この音程は中世の頃から悪魔の音程と呼ばれてきた音程。運命として非常に不穏な空気が漂っているということを表している。
「十字架の音型」十字架が現れてメロディも上に行こうとする。明るい希望の方に手を伸ばして行こうとするけどもまだおそらくは苦難の中にいることを表している。完全なる勝利が得られたのではないけれども今希望へ向かって進んでいる。希望を捨ててはいけないということが強くこの音楽から感じられる。
この音楽は本当に苦悩を極めた人からしか生まれてこない音楽。

原発イヤだ!電気は足りてるデモ (2013.12.22 東京都府中市)

2013年12月22日に東京都府中市で行われた「原発イヤだ!電気は足りてるデモ」の映像です。参加者はサンタのコスチュームで町を歩きました。前半はデモの映像で後半がアピールです。主催は原発イヤだ!府中です。 http://nonukefuchu.hatenablog.com/
発言者は、
原発イヤだ!府中の村上さん http://youtu.be/iGndNLEMxNY?t=16m27s
トライチさん http://youtu.be/iGndNLEMxNY?t=17m42s
原発イヤだ!府中の目黒重夫さん http://youtu.be/iGndNLEMxNY?t=19m16s
原発イヤだ!府中の鈴木さん http://youtu.be/iGndNLEMxNY?t=21m15s
のださん http://youtu.be/iGndNLEMxNY?t=22m59s
府中緊急派遣村の高見さん http://youtu.be/iGndNLEMxNY?t=24m19s
です。
ご覧ください。

のださんの発言にあった東京農工大学放射性物質が漏れた事件の詳細については、以下のリンクをご参考ください。

原子力規制委員会東京農工大学の放射性同位元素等取扱事業所における放射性物質の漏えいについて報告を受けました」
http://www.nsr.go.jp/activity/bousai/trouble/20131219-1.html

読売新聞「東京農工大放射性物質含む実験排水が漏えい」
http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news/20131220-OYT8T00524.htm

東京農工大「2013年12月20日:[記者会見]農学部放射線研究室における放射性同位元素を含んだ排水の漏えいについて」
http://www.tuat.ac.jp/disclosure/pressrelease/2012_20130409122803/20131219/index.html

東京農工大「2013年11月29日 地下埋設配管破損による放射性排水漏れの可能性について」
http://www.tuat.ac.jp/disclosure/pressrelease/2012_20130409122803/20131129131851/index.html

東京農工大東京農工大学農学部放射線研究室地下埋設配管破損による放射性排水漏れの可能性について」
http://www.tuat.ac.jp/news/20131130093343/

数日前のおはよう日本のまちかど情報室で紹介されていた振る充電器

nPowerPEGという機械です。
日本の公式ページはこちら。http://www.npowerpeg.jp/
前から気になっていたのですが、この値段だと高性能な太陽電池パネルを使った充電器が買えそうです。

特定秘密保護法に絶対反対!デモ (2013.11.30 東京都府中市)

2013年11月30日に行われた「特定秘密保護法に絶対反対!デモ」の映像です。発言者は、府中平和まつり実行委員の目黒さん、新聞を読む会の和田さん、鈴木さん、府中革新懇の田部さん、夜回り三鷹の荒瀬さんです。けやき並木でのアピール、原発イヤだ!府中のデモの告知もあります。ご覧ください。

第5回 九条の会 全国交流討論集会 シンポジウム 渡辺治さん、浦田一郎さん、柳澤協二さんの文字起こし

2013年11月16日の九条の会全国交流討論集会シンポジウムの文字起こしです。

小森さん、奥平さん、澤地さん、大江さんの文字起こしはこちら。http://d.hatena.ne.jp/zakinco/20131120/p1

渡辺

皆さんこんにちは。これから集団的自衛権行使容認と憲法というタイトルでシンポジウムをはじめさしていただきます。私は司会を担当する渡辺治です。よろしくお願いします。
今日のシンポジウムのお二人のパネリストを紹介いたします。最初は浦田一郎さんです。浦田さんはもうすでに皆さんご存じだと思いますが、この間一貫して日本国憲法の平和主義の研究に携わってこられました。そういう意味では、平和主義の憲法学の第一人者でございます。今日は集団的自衛権の問題についてお話をされますが、この間、集団的自衛権の問題が安倍内閣の中で大きな問題なる中で、浦田さんの普通の研究生活がかなりいろんな所の講演に追いまくられて、いろんなところで講演されているということです。どうぞよろしくお願いします。
もうひとかた柳澤協二さんです。柳澤さんは、防衛畑、防衛庁に入庁以来一貫して防衛畑を歩かれて、2004年からは内閣の官房副長官補として安全保障・危機管理担当になられまして、あの自衛隊イラク派兵問題、安倍内閣になってからは安保法制懇の懇談会の設営或いは海賊対処法等々で、歴代の内閣の中で中心的な活動をされてきました。今年、岩波書店で「検証 官邸のイラク戦争」という本を書かれまして、イラク戦争を深刻に今の視点から見てどういう戦争であったか、自衛隊イラク派兵はどういう問題があったのかということ総括されています。皆さんもすでによくご存知だと思いますが、安倍内閣の様々な問題についてメディアでも盛んにご活躍なされている。そういう意味で言うと極めて今日のシンポジウムにふさわしい方をお招きできたと思います。
まず浦田一郎さんの方からお話をしていただきます。

浦田

浦田一郎です。よろしくお願いいたします。
政府の憲法9条解釈では、集団的自衛権憲法上行使できないということになっています。集団的自衛権とは何かということなんですが、個別的自衛権は自国が武力攻撃を受けた場合に武力で反撃する権利と考えられています。それに対して集団的自衛権の方は、自国と密接な関係にある他国が武力攻撃を受けて自国が武力攻撃を受けていなくても武力行使で反撃するというこういう権利だと説明されています。ですから簡単に言えば、代表的にはアメリカが武力攻撃を受けて日本が武力攻撃を受けていないのだけれども自衛隊アメリカが行う戦争の前線で一緒に戦うと、こういうことになります。そういうことができるようにしたいと、こういう動きが強くなっているということなんです。そしてそれを従来の政府の憲法解釈がそうであるならば、解釈を変えれば集団的自衛権を行使できるようになるんじゃないかというように考えているわけです。その日程が早ければ年内にと考えられていたんですけれども、どうももう少しずれそうな感じです。来年の通常国会の予算審議が終わってから春以降本格化しそうな感じになってきています。それは与党の公明党が慎重であること、アメリカの態度が微妙だということが背景としてあるようです。そこでまず一般論なんですが、レジメにあります政府の9条解釈と集団的自衛権というところですが、集団的自衛権国連憲章の51条によって個別的自衛権とともに認められています。そういう権利なんですが、認めようとする人たちは、これは友達同士の助け合いと、言わば簡単に説明してそうすることによって平和が保てるというように言います。法的形式的にはそういう説明になる部分があるわけですが、実際のところはこの集団的自衛権体制は軍事同盟体制に繋がりやすくなり、そういう意味で軍事同盟同士の軍事的な緊張感も高めるという面があります。また、集団的自衛権体制の中で大国が小国を軍事的に支配する理由として使われることも少なくなかったわけです。政府の9条解釈では、集団的自衛権は今のように国際法上認められているけれども憲法9条の下では、行使することはできないと説明されてきました。その考え方は現在では自衛力という議論の仕方で、自衛力と言っているのは自衛のための必要最小限度の実力と定義されていて、自衛隊がそれに当たるんだと説明されているわけです。それを集団的自衛権は超えていると説明しています。これはもともと一面自衛隊や安保正当化するそういう役割を果たしてきました。しかし、反面それには一定の理由がついていますので、その理由がないときには認められないという軍事力を制約する側面も持っています。自衛力を認めるとそれを超えるものは認められないということになります。そこに集団的自衛権の行使という事が入っているわけです。そういうふうに軍事力を正当化する役割と軍事力に制約を加える役割、両方の役割をこの議論は持っていると思います。制約部分がどうしてできたのかといえばやはり9条があること。そして、それについて憲法学会の多数説が非武装平和主義解釈をとっていること。それから、そういうことの下で平和運動憲法運動を結びつけた市民運動が行われてきたこと。そういうことが背景になってるのだろうと思います。その部分をやはり注意したい。だからこそ集団的自衛権を何とか行使したいという議論が出てきているのだろうと思います。
政府の集団的自衛権解釈の歴史なんですけれども、1951年に平和条約、それから旧安保条約が結ばれました。そのとき二つの条約の中で集団的自衛権に言及しています。ですが政府はそれは国際法上の問題であって憲法上は行使できないという。ごく基本的な考え方を出していました。ごく簡単な議論だったんです。その後、60年の安保改定の時にいろんな議論が具体的に起こりその当時の政府の議論はややいろんな形で動いていました。その中の一つとしてですね、外国にまで行って武力行使をするような典型的な集団的自衛権は行使できない、という答弁がいくつかありました。そうするとそれをひっくり返すと、そうでない言わば個別的自衛権に近い日本の領域や周辺の、ある意味では必要最小限度の集団的自衛権は必ずしも否定されないと言ってるように読めるという部分があるわけです。ですが、そうはっきり認められるんだといった答弁は逆にないと内閣法制局は説明しています。そして、実際の安保の審議の中で5条の共同防衛については、日本の領域という限定が付け加えられています。外国まで出かけてということがない形になっている。そして日本の領域という部分についてもですね。その中で米軍基地が武力攻撃を受けた時の反撃というのは同時に領域侵犯を犯しているから日本の個別的自衛権が成立するんだと説明しています。この説明が良いかどうかは大いに問題なんですが、政府はそうして集団的自衛権を必要最小限度の範囲であれば行使するという議論を実際には取らなかったということです。そして、1972年の国会に提出した政府の資料の中で全面的に集団的自衛権憲法上認められないという解釈を出しました。そして81年の答弁書でそのことを定式化してそれが現在の議論の基礎になっています。
どういう物になっているかということですが、国際法保有している。しかし憲法上行使できない。持っているのに使えないのはおかしいという議論がよくされますけれども、これは国際法上は集団的自衛権が権利か義務かという問題です。国際法上の義務であるものを勝手にやらないというのはいけないわけですけれども、権利であれば各国が自分は行使しないという事はできるわけですね。それで憲法上日本は行使できない事になっている。国際法的には論理としてはおかしくないと考えられます。
政府の議論では、一方で九条がある。他方では国民に平和的生存権などがある。そうするとそれが他国からの武力攻撃で侵害された時には防衛の自衛措置を取る必要があるけれども、一方に9条があるのでその措置は必要最小限度でなければいけないというのが一番基礎にある議論の仕方です。その上で、自衛力という議論がされています。そしてこの議論が確かな解釈かということなんですけれども、9条が一切の戦争戦力を保持しない、放棄して保持しない、としていると考えればこの議論にはもちろん問題があります。ですが、その点を括弧にくくるとそれなりに9条の存在を意識している。だから、自衛の措置は必要を最小限と言っている。その必要最小限という事の具体的な中身として、自分が武力攻撃を受けたときに反撃する、これは認められてるけれども、自分が武力攻撃を受けていないのに反撃する、というのは必要最小限を超える。この議論は必要最小限の線引きの仕方としてそれなりの議論という事は言えると思います。その上で、実際には先ほど安保で説明しましたように、戦後の安保を含めた統治の基本構想と深く結びついたそういう重みのある解釈だということまでは言える思います。
近時の動きということですが、集団的自衛権を行使できるように憲法解釈ができるかということを模索してるところが安保法制懇と略称されている首相の私的諮問機関です。そこでは、もともと9条の存在を前提にしないような議論の仕方をして、こういうときに軍事力を行使できないと困るという必要論を出してるように思います。それから国際法憲法とくっつけてしまうような国際法に合わせるという議論の仕方をしている、というような特徴が有ると思います。いずれも問題があると思いますが、そこで目指されていることは、その座長は以前の第1次安倍内閣の時の懇談会、そこでは四つの類型について諮問があったので答えたけれども、今回はそういう累計じゃなくて集団的自衛権を包括的に検討すると言っています。それから北岡座長代理は、集団的自衛権は一般的に憲法上認められうると言う方向で議論をしてるように見えます。ですから全体として憲法解釈として全面解禁をするということが考えられているようです。ですが、そうするとですね、地球の裏側まで自衛隊が行くのかという反発が出てきたものですから、それについては憲法解釈じゃなくて法律とか政策で歯止めをかけると。個別的自衛権に近いところとか、あるいは日本の周辺であるとか。あるいは必要最小限度の集団的自衛権というようなことで、具体的には周辺事態法の周辺地帯が考えられているようです。そういう二段構えになっているように思います。
政府の憲法解釈を変えるということによってやろうとしているわけですが、これはいろんな問題があって、集団的自衛権憲法上可能だということは細かい事は省略しますが結論的には禁止されてるもの何もないということ。国際法のルールに9条が付け加えたもの何もない、9条は法的に意味はないというのと同じこと。そうするとそれは9条削除したのと同じということになってしまいます。それを96条の改憲手続きを経ずに、例えば内閣の閣議決定によってこれからは集団的自衛権を行使できることにしますとやることには大いに問題があるだろうと思います。
もう少し微妙な問題は、集団的自衛権憲法上全面的に行使できるけれども、法律や政策によって必要最小限度のものに歯止めをかけようという二段構えが主論のように見えますけれども、よく見てみると必要最小限度の集団的自衛権だけ憲法上認められると解釈を変える動きもちらほら見えています。これはそういう可能性があるかと言うとなかなか微妙ですね。と言いますのは先ほどのように全部OKとなると憲法は何も禁止してないということになりまけれども、集団的自衛権も必要最小限度なら認められてそれを超えるものなら認められないということであれば、9条の効力を残すことになるわけです。ですから憲法論としてはそれだけ安定するということになります。
それから全部解禁したいと張り切ってる安倍さんのような立場があり、他方で、公明党の慎重論やアメリカの微妙な態度ということの間で、言わば落としどころとして必要最小限度の部分だけ集団的自衛権を認めると、こういう解釈が出てくる可能性があるように思います。ただ、本当にそうかと言うとなかなか微妙なところがあって、もしそう解釈を変えたとすると、もうその解釈は変えませんかと聞かれた時に答えが難しいですね。次は明文改憲しかない形になる。それを覚悟するかという問題が出てくるでしょう。必要最小限度の集団的自衛権という議論の仕方は、うっかりすると中国を刺激し中国と一定の関係を保ちたいと考えているアメリカがちょっと待って欲しいというかもしれないというような微妙なところがあります。不確定な話をしましたけれども、その議論を見ると、現在の議論はですね、どんな風に難しい矛盾に満ちたものだなという事がわかると思うから話をしました。いろんな議論の余地がある問題だと思いますので、これからいろんな形で取り組んでいけると思います。今大急ぎで話しましたので、足りない部分は後で補いたいと思います。どうもご清聴ありがとうございました。


渡辺

浦田さんどうもありがとうございました。政府は憲法9条の下で今まで取ってきた解釈特に自衛隊については、自衛のための最小限度の実力だけれども、集団的自衛権についてはですね。それを超える自衛権の行使としてそれを認めないという解釈がずっとあった。それが大きな安倍政権のアメリカと一緒になって共同作戦をとるというような今安倍政権がねらっていることに対して非常に大きな障害物になったので、集団的自衛権を解釈で変更しようという動きが出てきているということで後半は解釈をどんな形で集団的自衛権を認めようとしてるのか、という話がありました。続いて柳澤さんの方から安倍政権は何を考えているのかということでご報告いただきます。

柳澤

柳澤です。ご紹介いただきました経歴の通り。私は防衛官僚をずっとやって参りまして、実は9条の会というのはめちゃくちゃ敷居が高いというか、そもそも全然違うエリアに生きている人たちという認識でずっと来ておったのですけれども。この問題はやはりさすがに私なりにいろんなことやってきた、またそのこと自体も私自身も責を持たなければいけないし、いろんな形で後世に残していかなければいけない。自分の体験も含めてこういう場でもぜひ私の考えを述べる機会をせっかくいただいたわけですから、お話しさせていただくのが私の義務でもあると。ま、さっき権利か義務かという話がありましたが、私は権利だと思ってきておりません。今日の話は義務だと思ってお話しさせていただきます。
安倍政権は何を考えているのか。実はいろんな形でメディアの人からも取材を受けるときに、安倍さんて何をしたいんでしょうね。何を考えてるんだろうね。というのがいつも共通の疑問になっているのですね。なぜそういうことになるかというと、どうも本来この人は憲法改正をしたくて靖国参拝をしたくて、あるいは中国に強硬な姿勢をとってなめられたくなくて、あるいは戦後レジームを全部ひっくり返したくてというのは言葉として出てくるのだけれども、それによってどういう国を作りたいのかというのが実はわからないのですね。そこは何だというと、強い日本を取り戻すとか美しい国とかいう、肝心の具体的な国家像の話に急にもの凄く抽象的な話なってしまう。そこに一番私なんかも含めて戸惑いを感じるところなんですね。そこはある意味戦略的にそうしているのではないかという部分もあって、そういうこと目指しながら、目指していることはどういうことかはなかなか具体的に定義できないが、安倍流の国家像を目指す過程の中で、そこにある秘密保護法とか、憲法解釈の変更とか、いろんなことを出したり引っ込めたりして、96条の改正も参議院選までに議論になったけれどとたんに言わなくなったとか。靖国参拝もサポータの強い希望にもかかわらず、どうも当分行きそうにもないとか。世論の動向或いは連立与党やアメリカの顔色を見ながら出したり引っ込めたりしながら少しずつ進んでいく。その意味では、第1次政権で私はお仕えしたのだけれども、あの時と比べると随分我慢できるところは我慢するようになってきた、という意味で、いつも何か安倍政権について褒めるところはないんですかと聞かれるので、強いて言えば、とりあえず我慢できているところじゃないでしょうか、と言うんですけれど。ただやっぱり最終的な国家像には今問われてるのは最終的な国家像、どういう日本にしたいという所、そこの議論がないままいろんなアメリカの船が襲われた時に日本が隣にいて助けなかったらどうするんだみたいな、非常にテクニカルなというか非常に矮小な具体的な議論をされるのはそういうところだけなんですね。秘密保護法の話にしたって、今だって公務員の守秘義務は私はかかっていますし、私がいる時、政府が出した5件漏えい事件がありましたという話を史料に出しているけど、その5件は現行法制で摘発したんですよ。だからそれを変えなければ摘発できなかった事例はどんなものがあるの、とそこを実証しないと法律の必要性というのは議論にならないのだけれどもそういう議論がないんですね。国会で参考人として呼ばれて行った時も、なんか皆その、国の安全がなくて人権もヘチマもあるかって、それはそうかもしれないけれども、問題は、国が国民の人権を守る国だから守らなきゃいけないのであって、国民の人権を無視して成り立つ国であったらそんなもの守りたくないわけですから。そこが問われているのに、国の安全というと何でも許されちゃう、みたいな。以前私、イラク戦争の検証の中でたどり着いた一つの結論は一言で言えば、日米同盟が大事と言った途端に思考停止してしまう。いわば日米同盟というバカの壁があって、そこをなかなか乗り越えられなかったという総括をしているのですが、それと比べると今の自民党や政権の議論を聞いてると、それよりもっと手前にバカの壁が来て、安全という壁がですね。そういう非常に荒っぽい雑な議論になっていて、それをおかしいとも思わずにやっていってる。そこが私は戦前に戻るからとかすぐ戦争になるからとかそうはさすがにこの戦後70年近い歴史を踏まえて、そう簡単に戦前に戻るようなすぐ戦争するようなことはとてもできないと思うのだけれども、そういう実証的な丁寧な議論をすることとはどういうことか、すらわからないまま政治家が議論している。そこが実は、一種の馬鹿ほど怖いものはない、という意味での危険性を私は民主主義の国家の主権者である国民の権利として危険を感じるのであります。
集団的自衛権の話に絞っていきますと、皆さんにはおそらく相当評判が悪かったと思いますが、1997年の日米防衛協力ガイドラインの改定、周辺事態における協力というのは私が担当者だったのですね。それをやるために必要だった理論構成というのはアメリカ軍の戦闘行為が行われている地域とは一線を画する地域において、医療とか補給とかそれ自体は、戦闘ではない行為を行う、のであれば、米軍の軍事行動とは一体化したとは見なされないから、憲法上禁止されている集団的自衛権の行使には当たらないんだと。こういう政府解釈ができているのですね。さっき浦田先生からご紹介のあった、81年の集団的自衛権は、保留はするけれども必要最小限度を超えたら行使しないというのは、これも実は正確に言うと、鈴木善幸内閣の時なのですけれども、あの時は日米協力がものすごく必要になって特に資源防衛とか極東ソ連の海軍を太平洋に出さないために日本列島を防衛するとか。そういう米ソの対決の中に日本自身が戦略的に組み込まれていく中で対米協力をする、そのことを正当化するために必要な論理として集団的自衛権保有すれども行使できないと。こういう解釈を政府はしていた。冷戦が終わって国の防衛という論理では言い切れなくなったところに周辺自体の問題が起きて、それはアメリカ軍の行動と一体化しないという、そういう概念を作って政府自身が憲法解釈を確定して、この考え方で実はイラク自衛隊を出すところまでやったわけです。それは非戦闘地域、まあイラクにそんなところがあったのかというとすごく難しい問題がありますけれども。そういうところまでやってきて、やはり基本にあるのは浦田さんもおっしゃっていたように、憲法9条と日米安保体制の大きな矛盾があるわけですね。これの中でどうそれを説明しながら憲法の中で憲法そのものにチャレンジせずにどう説明していくかというのが一貫した自民党政権の方針だったわけです。そこで、そのことによってイラク自衛隊を出すまではとにかくできた。元にできたわけですね。そして、私の経験ではそれに対してアメリカから特に注文はないのです。もっとこうやってくれなきゃ困るという話は政府からは聞いた試しはない。けれども、確かに第1次安倍政権のときに、ブッシュ政権の中でイラクアフガニスタンでの泥沼に入っていましたから、日本にもっといろんなことやって欲しいという意味で集団的自衛権の行使というようなことも政府の公式見解ではないけれども、いろいろ言われるようになってきた。そして小泉さんは、しかし、憲法改正するなら条文を改正すべきで解釈を直すべきではないという立場でずっと来ていた。それを引き継いだ安倍さんは、ブッシュ小泉のような個人的信頼関係に基づく同盟運営ができなかったんでしょうね。だから、アメリカのそういう隠された注文に応じる形で集団的自衛権を行使して日本版 NSC を作ってペンタゴンとのカウンターパート関係を明確化することによって、いわば対テロ戦争を一緒にやっていくための日米同盟を制度化しようとした。そういう狙いだったと、私は今振り返って分析をしているのですが。さてそうすると今また第2次安倍政権になってなぜそういうことやるのということがまたわからなくなる。対テロ戦争の時はそれなりに良い悪いは別として、アメリカのねらいははっきりしていたわけだし、集団的自衛権を議論する意味もそれなりに論理的に基本的に見えていた。けれど今はどうなんだというと、やはり中国ですね、意識されてるのは。よく容認派とテレビなんかで対談した時でも、まず言うのは尖閣を見てください、こんな状況は今までになかったじゃないですか。第1次安倍政権の時よりももっと酷い状況になっている。考えてみたら、そういうことで日本を取り巻く日本の安全保障環境はかつてなく厳しくなっているんだという言い方をする。思い起こしてみると、私なんかは防衛白書を作るときに毎年同じようなこと言ってるんですね。かつてなく厳しいとか、ますます厳しさを増しているとか。これはそんな抽象的な話で理解したってだめなんで、尖閣は明らかにどちらも戦争する気はないわけで、これは基本的に国のナショナリズムの問題であり、外交問題として割り切らなければいけない話。第一、尖閣が非常に厳しいから集団的自衛権がいるというのは、これはアメリカだって尖閣日米安保5条の適用範囲だと言っているわけです。つまり日本有事だということです。日本有事ということは個別的自衛権で日本は守れるという事なんです。私たちは、防衛力整備をやりながら極東ソ連が北海道を取りに来たときもそこそこ対抗できるだけの防衛力を備えてきたつもりですから、尖閣みたいな島をそんな簡単に取られないと私は思っているのですけれども。そういう現実を全部無視して尖閣が大変だから北朝鮮が核ミサイルを撃ってくるかもしれないから、というようなことでこれは一種の煽り立てなんですね。まともな理性的な分析と議論になっていない。結局そういう形でないとこの話を正当化できないというところに実はこの問題の限界というか、安倍政権そのものの持っている方向性を正直に言えない。だから、安倍政権が究極的に目指すところの姿、まあ自民党憲法草案を見ると何となくわかるけれども、あれはあまりにも雑すぎるのですけれども。だけどそのことを安倍さんはおっしゃらないわけですね。その代わりに国際情勢を理由にしてそれを説明しようとする。だからそこに無理が出てくるし、突っ込みどころが満載になっている。こういう話なんだけれども、それでも物事は一見着々と進んでいってしまっている。こんな感じなんですけれども。安倍政権を見ていて、私はちょっと歴代自民党内閣と違うなと感じるのは、少なくともアメリカが潜在的に何を求めるかということに寄り添いながら、日米同盟の枠の中でどんな役割を憲法との整合性を、まあそれは浦田さんに言わせるとそれは屁理屈でそれ自体○○な(聞き取れない)議論だということは重々承知なんだけれども、アメリカの戦略に合致する形で自衛隊の活動のメニューを増やしてきたという、その歴代自民党内閣と比べると、今アメリカがじゃあ中国との関係で戦争なんか全く考えてないわけですね。だから昔はよく安保があるからアメリカの戦争に日本が巻き込まれるという、そういう議論が主流だったのだけれども、今は日本があまり勇ましいことをすると尖閣をめぐる日中の軍事衝突に巻き込まれることをアメリカが心配しているという。こういう一番大きな国際情勢の変化というのは実は私はそこなんだろうと思ってるんですけれども。アメリカ自身が今中国をどうとらえてどのようにやろうとしているのかというところを非常にアメリカ自身が難しい状況になっている。イラク、アフガンであれだけ犠牲を出して軍事力の行使というのはアメリカ自身にとっても難しいことになっている。そういう中で安倍政権が非常にタカ派的ないろんな政策を、しかも抜本的な従来の自民党政権が破れなかったところを全部突破しようとしている。そのことの持つ意味というのは、そこが問われなければいけない。私はこれはかなり難しいことなんだと思います。やりすぎるとアメリカからクレームがつく。最大野党はアメリカだと私は言っているのですけれども。そういうところに特徴があるのかなと。
最後に申し上げておけば、これが出てきたことには一定の必然性があると思っているのですけれども、それは戦後70年近く経って日本が経済的に停滞を続けて中国にも GDP で抜かれて経済大国としての自尊心を大きく傷付けられて、その中で中国に対して勇ましいこと言えば、それは言って聞いてれば気持ちがいいからそれで人気は高くなるだろう。ですけど、そういう形で選挙に勝ってきたが、問われているのは、そういう日本的な経済大国としての自尊心、或いはアメリカの同盟国であってそれに協力することによって世界で大きな顔をしようという、ちょうどジャイアンにくっついていってスネ夫が大きな顔をしているような、そういうアイデンティティーが本当にこのままでは持たない限界を超えているということが事の本質で、それをさらにジャイアンと一緒になって自分も腕力を使えるような日本にしようというのが多分今の政権の方向性だと思うのだけれど、そこはもうちょっと違う今まで我々が積み上げてきた日本ブランドというか、例えばイラクに行った時も一発も銃を撃たなかったよというような、そういう日本ブランドをもっと大事にしながらやっていくところで日本人自身が誇りを持っていけるかという、そういう国のあり方自身が今一番実は問われている。そこからの議論をしっかりしていかなければならないのではないかということを感じている、ということ申し上げて、最初のプレゼンとさせていただきます。

渡辺

どうもありがとうございました。
危うい安倍政権の狙いと言いますか立ち位置のようなものをお話しいただきました。そこでお二人の冒頭のご発言を踏まえて、若干その議論を深めるためにいくつか質問をさせていただきたいと思います。まず浦田さんの方からお聞きしたいのですけれども。ご説明の中で政府の解釈というものが今まで憲法9条の下で自衛隊を存続維持させ安保体制を存続維持させるという側面とまた安保自衛隊の現実を正当化する側面と、同時に自衛隊の行動について一定の制約を課す、そういうような二面的な側面があった、というお話をされました。会場の皆さんも市民の皆さんも、こういう話を聞くとそもそも政府の解釈というのは自衛隊イラクの問題を取ってみてもそれを正当化するためにくるくる変わってきたんじゃないかというようなイメージがあって、それなのになぜ安倍さんはその政府の解釈自身をこんな乱暴に変えようとするのかということが非常に大きな疑問になって出ていると思うのですけれども。改めてまず最初に浦田さんに、ご報告の中にすでにあったのですけれどもこの二面性、特にその中での政府解釈がもったある一定の九条に裏付けられた積極的な側面というものをもう1回しつこいようですけれども、そこがすごく大事な点だと思うので、確認をしていただければと思います。

浦田

現在の政府の議論は自衛力論といわれて自衛のための最低限度の実力と定義されています。これはいくつかの要素から成り立っていて、一つまず最初に問題になることは実力ということなんですね。この部分は武力と大体イコールだと政府の方で説明しています。9条は戦争とか武力行使を問題にしているので武力でないことはそもそも9条の問題ではないという議論するわけですね。そうすると、ないものの代表的なものが経済援助、基地の提供、後方支援、こういうものは実力行使、武力行使ではないそれ自体は。こういう議論をするんですね。それは軍事の常識に反するかもしれませんけれどそういう線引きをするということです。そうすると今言った形で経済的な支援などを正当化するけれども、武力行使それ自体は9条の制約の下にある、こういう風になります。ですから90年代以降いろんな形で自衛隊が海外に出ていく法律が作られましたけれども、いずれも武力行使に渡ってはいけない、という条文が入ってるわけですね。それはそういう関係になっています。それから自衛のためのというわけですけれども、これはしばしば我が国を防衛するためと言い換えられるように、これは個別的自衛権のことなんですね。よくこの点が誤解されて、自衛という訳だから個別的自衛権集団的自衛権も入っていて、そういう広い自衛権について必要最小限度という制約があって、それで集団的自衛権がはじかれて個別的自衛権が残ると、こう読む人がいますけれども、これは誤解ですね。今言った個別的自衛権集団的自衛権の仕分けは、より抽象的というレベルで仕分けされていて、自衛力の自衛というのは個別的自衛権の場合です。ですから、個別的自衛権ということであれば武力行使できる。でもそれを超えるような集団的自衛権とか国連の集団安全保障に武力で持って参加するということは認められない。こういう議論をしてきたわけです。そこに集団的自衛権を行使できない、この問題はここにかかっているわけです。そうするとその必要最小限度の絞りというのは、たとえ個別的自衛権であっても必要最小限度でなければならないという制約になっているわけです。ですから日本の9条の下での個別的自衛権は、9条がない外国の個別的自衛権よりも更に絞られていると政府は説明しています。そういう絞りの具体化として海外派兵の禁止であるとか、攻撃的武器の禁止であるとか、交戦権の否認であるとか、こういうことがついているわけです。こういうものについてもまたそこで議論が行われて、海外派兵と海外派遣は違うという仕分けがされていって、その制約を狭めることは行われていますけれども、そういう制約もかぶってなお制約があるということです。
ですから安保法制懇の議論を見てますと、集団的自衛権の解禁と同時にですね、個別的自衛権にかかっているいろんな制約も外せという議論もしている。それはそういうところから来ている。こんな形の制約があります。もっと言えば、その周辺の政府自身は法的な制約とは説明していない政策的な制約の中に非核三原則なんてものがありますけれども、これはやはり9条がなければなかっただろうと思われますので、そういう意味で言うと政府の解釈やその周辺というのは、相当程度の制約の役割を果たしていると考えています。

渡辺

どうもありがとうございます。
今言ったように、9条の元に国民の声とか学説とかいうものがあって、政府もそれなりにそれを受け止めながら解釈を作ってきたということの中で、確かに自衛隊はあるけれども自衛隊の活動について他の国の軍隊がスイスイとできるようなことについて多くの制約を政府の解釈自身が作ってきた。安倍さんが気に食わないのそれだと。それを突破したいというのが今の大きな解釈による集団的自衛権の容認の動きだと思います。
そこで次にお聞きしたいのが、今日のお二人の話の中で、安倍政権の解釈による集団的自衛権の容認という問題が非常に重大な問題として今浮かび上がっているのですが、それについていろんな人たちが反対をしています。その中で特に安保法制懇という形で内閣法制局が数十年にわたって、少なくとも72年の集団的自衛権の行使はできませんよと言ってから40年も確立してきた積み重ねてきた政府の解釈を、安倍さんが内閣法制局長官を更迭してまで一度の法制懇の解釈でもって変えてしまうというのはおかしいのではないかと。あの96条と同じように立憲主義の崩壊、蹂躙ではないかという意見もあると思うのですが、ぜひ浦田さんに立憲主義とは何かということも含めて、今の安倍政権の解釈によるこういう動きというのは、立憲主義という見地から見てどうか、という点についてお話を伺えればと思います。

浦田

憲法自身が、政治を正当化する役割とそれからブレーキをかける役割、両方していると思います。そのブレーキの部分を理念化したのが立憲主義ということだと思います。憲法に従って政治を行う、こういうことです。私は授業では自動車の運転に例えるのですけれども、自動車の運転というのはアクセルとブレーキの両方がある。ブレーキを外すとすごくスイスイ走れるようだけれども危険なことであって、やはりアクセルとブレーキが必要だと。そのブレーキの役割が立憲主義ということ。憲法であり、そういう考え方が立憲主義ということだと考えているわけです。そういうことから言うと先程、政府の解釈は変えれないことはないのですね。ただ立憲主義や法の支配ということを考えると慎重でなければいけないということなんです。その中でも集団的自衛権を行使できるようにするという解釈は、法的な理屈としてはほとんど不可能だと思います。それは先程国際法との関係で言ったわけですが、集団的自衛権を行使できる、そうすると国連の集団保障関係もできることになります。なぜかというと国際法的には集団的自衛権は国家の私事ですね。それから国連の集団安全保障は国連体制、公のことですから、なおさら国連であれば武力行使できるということになります。実際もそういう風に集団的自衛権を解禁する議論の人は、同時に集団安全保障もできるんだとこう言います。そうすると禁止されてるのは侵略戦争だけということになってしまうのですけれども、侵略戦争ができるというのはありえないことですから、だから9条は何も禁止していないということになってしまう。そうするのは、結局9条の削除論ではないだろうか、だったら96条の手続きを経なければいけない。閣議決定でというのは脱法行為ではないかということなんです。
もう一つ先程は省略したんですけれども明治憲法との関係があります。明治憲法でも、もちろん侵略戦争は良いという風には憲法としてなっていないはずです。特に1928年の不戦条約には日本も参加していますから、侵略戦争はもちろんできないということにすでに明治憲法下でなっているわけです。そうすると今日本国憲法の下で禁止されてるのは侵略戦争だけだという9条解釈をとるということは、軍事に関して明治憲法日本国憲法は何も変わりがない。中身は変わらない。ただ明治憲法には軍隊の最高指揮権は天皇が持つ或いは宣戦布告、講和なりについては帝国議会の承認が必要であるというような、軍事力の立憲的統制や軍事力の根拠になるものがあったわけですが、今のような解禁論の解釈をとると9条の役割というのは中身としては明治憲法と変わらなくて、明治憲法にあった立憲的統制を外すだけとなってしまうのですね。こんなおかしな解釈はないだろうと思います。
今の問題は実は自衛隊を作るときにも議論になっていて、自衛隊を作るときの防衛庁設置法、自衛隊法の原案を作った当時の保安部長の担当者はそのこと意識して自衛隊が発足したあと本を出していて、自衛力論に沿って自衛隊憲法違反ではないという、そういう説明をした後で、しかし自衛隊憲法上の根拠は自分は説明できない。それは世界中どの国だって軍隊を持っているところでは憲法にその根拠規定があると。この部分が説明できないけれども了承してもらうしかない、こういう議論があったんです。そういう問題だったら今すでにそういう問題が起こっているという部分ですが、でもそれにしても現在の解釈であれば自衛力は認められるけれども、それを超えるものは認められないという9条の効力を残してるわけですね。それを全部外してしまった場合には、本当に憲法論としては筋が通らないものになるだろうと、こういう中身です。そして、今考えられている手続きは閣議決定内閣総理大臣が国会に報告してそれに基づいて国家安全保障法を作り、或いは集団自衛事態法を作っていくということでやって行こうということなんですが、立憲主義から言えば、そういうものはちゃんと96条の国会衆参の特別多数とそれから国民投票の手続きを経なければいけないということになる。そういう立憲主義上の問題があると思います。

渡辺

どうもありがとうございました。
今の話で安倍政権は、今までの日本の政府がとってきた解釈、ある種の自衛隊の制約を逸脱しようとしている。しかもそれを、国民的な議論を経る中で憲法96条の憲法改正手続きを使ってやるのではなくて、政府の解釈の変更という形で憲法の根本的な部分を変えようとしている。そういうお話がありました。
そう見てくると今度は柳沢さんにお聞きしたいのですが、柳沢さんは先程のご報告の中で安倍政権というのは今までの歴代自民党政権とも少し違うところがある。日米同盟の枠の中で今まで運営されてきた日本の政権という点から見ると安倍政権は少し違うところがあるというお話がありました。そういう意味では既存の政府解釈を飛び越えようとしている。そして集団的自衛権を認めようとしている。そういう方向性がまさに歴代自民党政権との関係が問われるわけですが、まず最初にお聞きしたいのは安倍内閣のそうした既存の内閣の政治を逸脱して大きく変えようとしている安倍政権の動きというのは、安倍個人の特異な政治姿勢、或いは性格の強い要望、要するに安倍さんがすごい特異なタカ派でこれをやろうとしてるからこういう動きが出てきているのか、それともある一定の保守の支配層の合意の中で安倍さんが既存の政治のあり方、既存の日米軍事同盟のあり方、これを逸脱しようとしているのか。どうも前者のように聞こえるのですが、その点について柳澤さんのご意見を伺いたいのですが。


柳澤

そこは私が今まで見ている限りではということですけれども、安倍個人あるいは安倍さんを取り巻く安倍的な人たち、何とも定義のしようがないからそういう言い方をしますが、要は靖国に行かなきゃだめだよねとか、過去の戦争はどこの国も同じことをやっていたんで日本だけが悪くないよねとか。そういうことに原点を求めている人たちの期待を持っているのだろうと思うのですね。その意味で非常に抽象的で私はそのようなものは世界に通用しないと思うけれども、その意味ではそういう一種の原理主義的な理念を持っていて、それは戦後ずっと一貫して、なかったわけではない。それはずっとあったけれども、それを歴代自民党政権はそこで立ち上がろうとしたってとても無理だし、政治的には何もプラスにもならないからそれを表に出さずにきたのですね。そういう意味で、じゃあ今この時点でそういうことに踏み切らなければいけない政治的な必然性があるのか。それともさっき申し上げたように、日本人が自信を失って選挙のたびに風が吹いてワットわけがわからないまま多数党が変わってしまうような政治状況の中で、それをチャンスと見て出そうとしているのか。しかし、そうだとするとやはりこういう物事、しかもこういう大きな転換に当たるようなことをやって行こうとすれば、それなりの歴史的な必然性、客観的な条件がなければ政策というものは実現できないと思っているのですが、それがあるかどうかということで言えば、さっき申し上げたアメリカがそれを評価するのだろうか、何よりも国民自身がこのことをどう評価するのか、といったって去年の選挙であれだけ取ってしまったから何とも言いがたい部分があるのだけれども、そういうことまで含めて国民は託したわけではないのだろうと思うのですが、そこをどう見るか。私は今のアメリカの戦略からして日本人自身の受け止め方からしても、そこに必ずしも必然性はない。むしろ経済界なんかも日中、日韓は政治的にはもうどうせだめだから経済だけでうまくやろうよという動きもなきにしもあらずだと思うけれども、どこかでそこが耐えがたいところまで行った時に逆に安倍政権に対して修正を求める流れもありうるのではないかと思っている。ただなかなかそれが具体的な姿として出てこない。
ついでに余計な事いますと、安倍政権の性格がどうなんだろうと考えるときに縦軸に理念の強さをとって、横軸に軍事力に依存するか否定するかというグラフを考えていただくと、安倍政権というのは理念が強くて軍事力に依存するという位置にいる。これはちょうどアメリカのブッシュジュニア政権と同じで、アメリカは特別なのだからアメリカの価値観で世界を軍事力で変えなければいけないという戦争始めたわけですから、一般的にはそういう無駄な間違った戦争をしちゃう恐れがある政権。一方で、国民が見放した民主党とは何だというと、鳩山さんは理念は強くて軍事力を否定する反対側のサイドに鳩山政権が位置付けられる。歴代自民党というのはちょうどどちらにも傾かない原点に近くの言葉で言えば中庸というか、皆が満足する中でできるだけ波風たてずにやろうという判断基準を持っていた。そういう意味でも鳩山政権もそうだし、その裏返しとして出てきた安倍政権も非常に特殊。だから、そういうものが今日本の社会が抱えている矛盾の解決のためにそれを求めているのかというと、そこはまだまだ分析不足ですが、必然性というよりは政治的な波に乗っているときにやってしまおうという固有の性格の方が強い。それゆえにこれが最後まで順調にいくという保証は全くない。そういう政権ではないかと私は考えております。


渡辺

今の安倍政権の性格ということをお話しいただいたのですけれども、一方で今の安倍政権の解釈による集団的自衛権の行使容認とかそういう動きに対して、この間自民党の領袖と言われている人々、例えば古賀誠さんが参議院選挙の前に共産党赤旗の日曜版に登場される。そして安倍政権の推進しようとしていた96条改憲というものを立憲主義に照らしみてどうなのか、という危惧の念を表明される。これは相当大きな出来事だったと私は思いました。それから河野洋平さんもこの間安倍政権の解釈によるそういう動きに対して非常に危惧を表明されていますし、私が前に議論した野中広務さんもこうした安倍政権の動きに対して非常に危惧を表明されている。つまり従来自民党政治を担ってきたような、先程の柳沢さんのお話だと二つの軸の中庸あたりにいた人々が、相次いで安倍政権の今の動きは本当に日本のこれからにとって良いのだろうかという危惧の念を表明されている。ところが他方、去年の秋の自民党の総裁選挙では、安倍さんだけじゃなくて立候補した方すべてが集団的自衛権を認めると、それから立候補したすべての人が石破さんも含めて安倍さんも含めて尖閣問題に対しては強く対処しなければいけないと、このようなことをいう。そういう意味で言うと今の自民党というのは全体として非常に安倍っぽい雰囲気に偏っているように見えるし、同時にそういう自民党の今の政治に対して自民党を従来から担ってきたようなそういう人々が、いろんな形で相次いで意見を表明される。また、内閣法制局長官の歴代経験者も今回の動きについてあえていろんなところで発言している。こういう状況を見ると今の保守政治全体の方向をめぐっても、何か大きく二つの流れみたいなものがあるような気がするのですが、柳澤さんの目から見てこうした自民党政治にはこういう別の道への選択肢があるのか、それとも差し当たり自民党政治というのは安倍色が非常に強い形で、今タカ派的な方向に進んでいるのか。この辺についてはどのようにお考えでしょうか。

柳澤

大きく分けて二つの面から物事を見ているのですけれども、一つはやはり世代論の問題はあると思うのですね。私は政府にいるときに基本的に信頼できるというか尊敬できる政治家が保守、当然自民党政権がずっと続いていましたから自分の上司でも、基本的に政治家というのは我々官僚にはない非常に柔軟で広い視野を持って全体をうまくまとめていく。まあ、あまり理論性はないにしても。いわゆる人徳とか先を読む力だとか、我々がとても真似できないようなものを持っているという意味で、私は尊敬できる政治家は結構多かったと思っています。そういう人たちは押しなべて言うとやはり戦中派なんですね。やはり戦争を経験されてきているから、特に戦争に繋がるものについては慎重でしたし、まさに抵抗勢力の役割を果たしてこられたのだろうと思います。そういう人たちが皆、最初は小泉さんの時の郵政選挙で、小泉批判勢力はうるさ型の重鎮が多かったのですがみんな離党してしまったわけです。あれで小泉さんは公約通り自民党をぶっ壊したのだと僕は思うのですけれど。そうするとぶっ壊れた自民党ですから、そういう経験なりが伝わっていかないまま数だけ多くなってくる。小泉さんが残した伝統のもう一つは、ポピュリスト政権ということなんです。国民の人気投票のようにして政治家が決まってくる。その流れに乗らないと政治家になれないのだから、その意味で今自民党の中で安倍さんに反対する声はない。折しも民主党の外交的な失敗によって尖閣国有化をきっかけにして日中関係がガチャガチャになっちゃった。その流れを踏まえての選挙でもあったから、前回の自民党総裁選では皆同じような立場になったのだと思うのですけれども。ただ自民党の中にも中堅若手の中にも大きい声では言えないけれどと言って私にアプローチしてこられる方もいらしゃるし、そういう修正のための何かきっかけがあってまた出てくるという、そういう可能性がもう一つの面としてあるのだろうと思います。
どうも僕は経済は疎いのですけれども、この安保政策というのはとにかく行け行けどんどんだし非常にタカ派的ともいえるけれどすごくバブリーだとも言えるわけですね。日本の身の程、実力をわきまえずに何でもかんでもやれちゃうようなことを言っている。一方で、アベノミクスもその通りなんですけれども、あんなにじゃぶじゃぶお金をばらまいて財政負担をどんどん増やしていって消費税は上げて、どうも来年の4月になると消費税は上がったけれど財政赤字はもっと増えたみたいな、そんな状況だってないわけではない。そうすると経済と安保というのは車の両輪的なところがあって、物事を根元から詰めきっていないポピュリズム政治の詰めの甘さの弱点がどこかで出てくる。そうすると自民党自身の中身もちょっと変わってくるという、そういう可能性もあると思っているのですけれども。ただ、最初に述べた世代論との関係で言うと、それは今後ちょっとよく観察していかなければならない所だと感じています。

渡辺

どうもありがとうございます。
それではお二方の方でそれぞれのご発言を聞いてこの点はどうなんだということがいろいろあると思いますが、お互い同士でご意見を交換してください。それでは浦田さんから。

浦田

えっと、集団的自衛権に関するアメリカの態度が微妙だと一言で私は済ませてしまったのですけれども、その点についていくつかのこと言われていたのですが、ちょっとまとめていただいて、どういう要素があっていつ頃からどんな風にということについてお話しいただけますか。

柳澤

ここはなかなかはっきりしたエビデンスは出てこないのですね。例えば、2+2(ツー・プラス・ツー)というのが10月の初めにあって、アメリカのケリー国務長官ヘーゲル国防長官が来て日本の外務防衛大臣と話をしてガイドラインの見直しで合意をするとともに、集団的自衛権行使を含む日本のいろんな積極的な努力を評価するというような声明を出しているのですけれども、おそらくそういうことはどうやって作られるかというと、日本から外務官僚がアメリカにこれはちゃんと言ってくれよなと注文するわけです。だけど、アメリカの本音はむしろ、あの2人が来た時に靖国神社じゃなくて千鳥ヶ淵に参拝しているというところに現れているように私には思えるのですけれども。それは要するに日本の閣僚がワシントンに行くとアーリントンの国立墓地にお花をあげるんですね。同じことをイクイバラント(equivalent)だと言っていたらしいのですが、同じことをアメリカの閣僚がするとすれば、靖国なのか千鳥ヶ淵なのかという話は非常に大きな意味があるのですね。彼らはあえてアーリントンと同等なのは千鳥ケ淵だという風に言ってそちらに行ったわけです。これは持っているメッセージはものすごく明確で、まあいろいろ積極的な防衛協力はやってくれるのありがたいけれど、中国韓国とこれ以上仲悪くするなよなと、こういうメッセージなのですね。政府はいろいろ慎重に発言してますけれど、今年の2月からずっと出てきているアメリカのいろんな議会調査局とかの論調を見てもシンクタンクのレポートなんかを見てますと、一様に一番の危険は尖閣、例えば2月の安倍訪米前の米軍の機関紙であるスターズアンドストライプスという新聞にはなんて書いてあったかというと、安倍は暖かくオバマホワイトハウスに迎え入れられた後にこう言われるだろうと。誰も住んでいない無人島のために俺たちを巻き込むのは勘弁してくれよな。米軍の機関紙にそういうことを書かれている事態なわけです。どのシンクタンクを見ても、もう軍事で中国を封じ込めるなんていう話はもう無理だということを前提にして、どうやって政治的な落としどころを考えるのかがこれからのアメリカの戦略の課題だ、ということが盛んに書かれている。アメリカがそういうことを考えている時に、いやアメリカの勢力が減った分、日本が足さなければいけないからということで集団的自衛権を議論しながら、じゃあアジア諸国とどうアジアの中で日本がどうリーダーシップを取れるのかということをそういう外交戦略については全く出てきていない。まあ、何ヶ国も回ってよく動いていることは認めますが、安倍総理も。ベトナム行っても原発を売り込むとか。どうもあれは本当は安全保障というより原発外交じゃないかと僕は思っているんですけれど、それぞれの国だって中国との間合いはそれぞれの国益に基づいてやっていくわけですから。なかなか外交が見えないまま軍事的なタカ派的な発言なりが出てくる。アメリカの本音は中国とアメリカの間には固有の対立要因はないのだよね、という合意があるわけです。だから尖閣にしろどこにしろアメリカの国益にとってどうでもいいつまらないことでもめ事を起こすのはやめてくれというのが本音。だけど、片やでは尖閣が取られたらどうするんだ。だから集団的自衛権だ、陸上自衛隊海兵隊にするんだ、とこういう話をしている。そこのズレが、まあ役人は賢いからそんなにいっぺんに出てくることは、うまくコントロールしていくと思うのですが、そこら辺はかつてない、国際情勢はかつてない厳しいという同じ言い方をすれば、今の日米同盟というのはかつてない戦略的な食い違いの要素をはらんでいる、というそんな関係にあると思います。これはあと1年2年くらい注意深く見ていかないといけない思っております。そういう所を挙げだすときりがないんですけれども、これといったはっきりしたものはなかなか挙げられないのですけれども、明らかに齟齬があるなという感じを持っています。
私の方からは、解釈改憲をやっていくときに今の必要最小限度の中に、集団的自衛権というのは必要最小限度の中に入っているよというのは、これは81年の政府解釈との関係で言えば論理矛盾になると私も思うのですけども。ただそれは日本を防衛するための必要最小限度の中にアメリカという要素を入れないとなかなか集団的自衛権の説明にならないのだと思うのですね。そうだとすると、ものすごく今意識的に彼らが避けているのは、日米安保条約を改正すればもっとすっきりするわけですね。憲法の明文改正もそうなんですけれども。ところが日米安保条約を改正するということは、じゃあ地位協定はどうするんだということになる。沖縄の基地をどうするんだ、という話になってとにかく大混乱になるわけですから政府は絶対やりたくない。だけど、アメリカを助けないと日本の防衛ができないという論理で必要最小限度を言おうとすれば、やはり日米安保の要素を入れざるを得ないと思うのですけれども、そこはどんなふうにご覧になっているか教えていただきたい

浦田

私がどう思っているか。ではなくて、政府の議論として紹介いたしますが今言われた。集団的自衛権の必要最小限度に入るんじゃないか。ということですね。これは北岡さんがいわれている。議論助け合いの下で初めて自分の国を守れると簡単に言えば、そういう理屈ですね。政府の集団的自衛権解釈の論理の、より抽象的なレベルの議論なんですね。自衛力のより具体的な議論ではなくて。このレベルの議論で一方で九条が確かにある。他方で、平和的生存権、幸福追求権、場合によっては国家固有の自衛権という対抗物を考えて、だから自衛の措置は必要最小限度でなければいけない。こういう論理の中に入る、ということなんですが。これを憲法論というか法的な議論として考えると、じゃあ必要最小限度を超えているものはなんですかというと何もないんですね。ということは必要最小限度という概念が無意味になっていると思います。これは法的な理屈です。そして安保との関係をどう考えるかという問題ですね。こういうこともたびたび国会で議論になってきたことです。自衛力の中に安保が入るか、そんな議論もかつてあったわけですけども。私自身は安保で日本を守っていくという考え方は、現実的短期的にそういうふうに考えられているのでしょうけれども、長期的に見て外国の基地を国内に沢山置いているような形でやっていくということは根本的には問題がある。これは日本だけではなくて外国もそうであって、いろんな国でいわば軍事同盟はやめてきましょうという方向で、長期的根本的にはものを考えなければいけないと思っています。聞かれたことに直接には答えていないかもしれませんが、根本的にはそのように考えています。

渡辺

どうもありがとうございました。
最後にお二人の方からそれぞれ今後の安倍政権の集団的自衛権の解釈による改憲、あるいは安倍政権のねらうような秘密保護法もそうですし、国家安全保障会議法もそうですし防衛計画の大綱の再改定もそうですし、次から次へと出している今の政治の方向、憲法に対するチャレンジの方向に対して、一言ずつお話をしていただきたいと思います。

柳澤

ありがとうございます。
私はこういうところでこういうお話をしながらふとこう感じるのは、私はイラク自衛隊を出してそのこと自体は非常に良い仕事をしたと私自身は思っているのです。それは憲法の解釈の中で自分はセーフだと思ってるけど、皆さんは多分アウトだとおっしゃる。私が言いたいのは何かしなければいけないのだろうということはコンセンサスがあると思うので、その時にイラクの経験というのは一発も弾を撃たなかった、現地の人に全く銃を向けなかった。そのことによって、1人殺したら3人敵が増えるのですから、そのことによって自衛隊の安全も確保された。そして、いまだに中東からは日本を敵視する見方はない。これが日本の財産でしょということなんです。そういうものをオルタナティブを出していかないといけないということ。そして、世代交代論は実は自民党だけでなくて、我々も皆さんの方にも言えることなんで、戦争を実際経験していて、それはもうよくないよね、ということが原点にあった世代がいなくなりつつあるわけですから、そのときに何をベースに持ってくるかですね。私は一つはやはり国民主権ということをもう一回問い直すというか、要は個人の知りたい権利をどうするかというよりは、政府を選ぶ権利が、よりよい政府を作っていくことは国民の義務でもあり、最大の権利なんだということ。そのためにいろいろなことを知らなければいけないし、政府と一緒に賢くならなければいけないでしょという、そういう視点が大事だと思うのだけれども、そういう言い方だと感情的に燃え上がるものがないのでその辺がちょっと難しいのだと思うのだけれども。私が言えば、イラク自衛隊を出してきたような経験が私自身の原点になっています。それ以上どんな国益のためかもわからない事のために政治家の気まぐれで私は国民の財産である自衛隊を無駄に使ってはいけない。それが私の発想の原点なのですが、そういうものを皆さんのサイドもしっかり作っていかないとなかなかこれから先の運動の発展ということは難しいのじゃないかと率直にそんな感じに思っています。

浦田

一つは立憲主義は大事だという議論の場合には、変えるのであればちゃんと96条の手続きを踏んで欲しいということになります。ですから96条の手続きを踏めば、9条を変えることにこだわりはないという、必ずしも反対しないというこういう議論が出てきます。他方で、9条が大事だと考える側は明文改憲についてははっきり反対という態度が出やすいのですけれども、解釈改憲になると何か様子がわからないということになってしまう。だから立憲主義が大事だという議論と9条が大事だという議論が一緒にやっていく部分が必要じゃないかと思います。
もう一つは今日の話は政府の議論もブレーキの役割をそれなりに果たしているという消極的話だったのですけれども。今国連の人権理事会で、平和への権利を国連文書として出そうというこういう動きがあるんですね。世界の法律家団体や NGO が取り組んで、それに対してアメリカやヨーロッパや日本の政府が反対している、こういう状態があります。それに対して日本では平和的生存権の議論があり、それから判決も出ている、ということでそういう日本の経験を国連での議論に反映できないだろうか、というこういう問題があって、そういうシンポジウムに私は呼ばれて平和への権利と平和的生存権の関係を考えたんです。そのときに平和への権利として国連で議論されているものは、軍縮とか良心的兵役拒否とか軍需産業の規制とか、その他そういうものがいろいろあるのですけれども、いずれも軍事を前提としたうえでの規制なのですね。それに対して日本の平和的生存権は9条と結びついて軍事力を前提としない形で議論されてきた。この二つをつなぐことはむつかしいという思いをしました。そうすると軍事力を認めた場合であっても、という議論が必要で、そのときにその媒介の役割を政府の議論は果たしうるのではないか。変形していけば可能性があるのではないか。その代表的なものが集団的自衛権を行使できないということだと思うのですね。これは一般的な言い方をすると軍事同盟は止めていきましょうという議論だと思うのです。でも、これを国連に持っていってもアメリカやヨーロッパの国が OK と言いませんから、これは採用されなくても言うということ、こういう意味だと思うのですけれども。でも、そこまで言わないとしても軍事同盟的なものに対する規制というのはいろいろ考えうると思うのです。情報公開であるとか。基地の環境問題であるとか。あるいはそこでの犯罪についての裁判権の問題とかですね。そういうものを国連を舞台にして発言していくというようなこともありうる。だから政府の議論もブレーキとしてだけ使うのではなくて、もっと積極的にですね、組み替えて○○(聞き取れない)使っていく可能性もあると思っています。以上です。

渡辺

ありがとうございました。
今日のようなこういうシンポジウム、今の政府の9条についての解釈と自衛隊についての自衛隊の存在を認めるけどその行動の制約を認める、そういう立場から今まで様々な形で政治に関与され、今安倍政権の解釈による改憲、あるいは秘密保護法、こういう動きに対して大きな声をあげられている柳澤さんと、それから9条そのものに基づく、武力に寄らない平和ということを一貫して追及された浦田さん。この二人が九条の会の全国討論集会でお二人合わさってシンポジウムをやるということはこれからの○○(拍手で聞き取れない)に非常に大きな一歩になることを訴えて今日のシンポジウムを終わりたいと思います。