報道特集(2013/4/20)の石牟礼道子さんへのインタビュー文字起こし

(金平)
1969年、水俣病の悲劇を記した作品「苦海浄土」を世に問うた作家、石牟礼道子さん。以降半世紀にわたり患者に寄り添い続けた石牟礼さんに、今回の判決への思いを聞くため熊本を訪ねました。石牟礼さんは病院で闘病中でした。


(石牟礼)
しかし、57年ぶりですからね、発生から。何て残酷な期間だったろうと思います。この溝口さんが1週間くらい前にここにお見えになったんですよ。


(金平)
判決の前ですよね。


(石牟礼)
ちょうどお昼時分でございましたので、何気なくカツ丼を取ってみんなで(溝口さんと)食べたんですね。しばらくしてから、食べてから3時間ほどしてから
「今日はカツ丼ばごちそうになった。カツ丼というのは、勝つぞという意味かもしれない」
と言い出して、わっと涙を出して。びっくりしましたけど、溝口さんが。大変喜んでお帰りになりまして、付き添いの女の人は
「この所ずっと沈み込んで物言っても返事もなさらなかった。今日の溝口さんはまるで生まれ変わったように元気になんなさった。とてもありがとうございました、カツ丼を」
とおっしゃって帰ったばっかりなんですよ。


(金平)
溝口さんに対して何かおっしゃりたいことは、いっぱいあるわけですね。


(石牟礼)
いっぱいありますね。でもいっぱい言わんでもよかろうと思って。ただ背中に触って「まあご苦労さまでしたね。これまできつかったですね」って言いたいです。


(ナレーション)
水俣病と認められなかった熊本県水俣市の女性を、最高裁が初めて水俣病患者と認定したことを受け、環境省の南川秀樹事務次官は18日記者会見し、判決で認定基準は否定されておらず基準を変える必要はないと述べ、基準を見直さない方針を明らかにしました。南川次官はまた認定審査のありかたについて、従来適切に行われてきたと考えていると述べました。


(金平)
認定基準というといかにも客観的で正しい、何か決まりのような基準のような物ががありますけど、そもそも認定基準というのは今から考えると何だったと思われますか。


(石牟礼)
私、その時から思っていましたけど、あの凄まじい症状というのは知らないはずないですよね。全部綿密に調べたら大変なことになる。とんでもない実態の状態が出てきたでしょうよ。それで前もってそれこそ棄てる数をおおざっぱに計算して、これ以上増やさないと、それで人柱の集団を。供犠(きょうぎ)「いけにえ」ですよ。供犠として水俣を決めたのだと思います。水俣に犠牲になってもらおうと。


(金平)
そのための基準が認定基準。


(石牟礼)
認定基準だったと、これ以上増えないように増やさないように。絶対増やさないと固く決心したんじゃないでしょうか。それで情けもへったくれもないですよ。


(金平)
気がつくと石牟礼さんとの対話は1時間を超えていました。体力の限界だと判断してインタビューを中断することにしました。
水俣病というのは公害病の原点というような言い方をされていますけど、震災とそれから福島の事故を経て、この国のあり方ということを考える時に、繋がっている物があるでしょう。


(石牟礼)
全部繋がっていますね。やり方があまりにそっくりなんで。